今日のブログ、ごめんなさい。

読むのにお時間とらせます、長くなります。

人は自分の定義(物差し)で物言いします。

これを押し付けられるのが、私は本当に苦手です。

人が物を言う、

これは個人の自由だと思っているので尊重しますし、

どちらが正しいとか悪いとかありません。

人が何か言うのに対し、

否定する気もないし却下する気もないけど、

同時に受けれる義務も責任も私にはないんです。

私も意見は言いますが、

それを押し付けないようにする努力は普段からしています。

理由は、

自分の定義を押し付けると、そこには対立が生まれ、

事がどんどん大きくなったら、無駄にする命が発生するから。

フロイドさんが亡くなってから、

アメリカは抗議が行われています。

そして抗議とはまた別に

正義と勘違いした暴力を振りかざし、

自己満足のための行動に出ている人がたくさんいます。

言葉の暴力も身体的暴力と同じ位、いや、それ以上に発生しています。

元は警官が市民を殺めてしまった、この事件ですが、

『白人』の『警官』が、『手錠』をされた『黒人』を殺した、

とここにきて人種差別に油を注いだ表現(利用目的)をして

うっぷん晴らしや自己利益のために利用している人が多数居ます。

『先生は警察が嫌い! 黒人の命は大事』というプラカードだったり、

『警官は悪人だ! 黒人の命は大事』というプラカードだったり、

これぞ差別の元凶だ!というプラカードがどんどん増加しています。

犯罪者も警察官も、当然ながら黒人と白人という枠ではくくれないんです。

そもそも警察も他の組織も「個人」から成り立っているわけです。

その職業だから悪い人と決めつけるのは単純で短絡的すぎます。

警察官でも銀行員でも学生でも、

悪い人は悪い、罪人は罪人なのであります。

悪いことをしたら法の裁きを受けるべき対象です。

それを「警官が発端で起きた暴動だ」と言って

警官を標的にして襲う、銃殺しようなんて、

あまりにも短絡すぎておバカさんとしか言いようがない。

そして破壊行動に略奪、

このフロイドさん事件を利用している人、

多過ぎます。

『どの命も、命は命』と私は自分のフェイスブックにポストしました。

その説明として、、、

「ゾウさんの命もアリさんの命も、命は命。

どの命も大事、これが根本。

私は人の命が最上位とも思ってない。

これが分かれば肌の色なんか問題じゃないでしょ?

みんな大事な命だよ。」

と私個人の意志を明言しました。

そうしたらかなり上から目線で

「今のこのご時世、不適切だ、焦点がズレ過ぎた。」

「今だけでも良いから、この世の中を支持するために

『黒人の命は大事』と言うように」

というメッセージをいくつか受け取りました。

同調を強制してくる、そういうメッセージです。

このようなメッセージをあまり親しくない方たちから受け取り、

一言で表現すると(言葉が悪くてすみません)

「胸糞悪いとはこのことか!」

と私は学びました。

なぜ私の不快感がマックスになったのか、

本日、落ち着いて考えてみました。

1.私のフェイスブックのページで

他の人にも見えるように、

いかに私が焦点ズレてるか!を、

私を含め私のページが見れる人みんなを教育しようとしてきたこと。

2.彼らの意思や考えに同調するよう、

私のフェイスブックの公のページのほうで

圧力ともとれるコメントを入れてきたこと。

3.私の親しい人でもないのに、

私のフェイスブック(私のパーソナルスペース)で、

ズカズカと遠慮もなく、しかも上から目線の表現、

しまいには「あなたとの友情のためにも」と言ってきたこと。

(「もとよりあなたは知り合いだけどお友達ではありません!」と思いました。)

4.2か月前、コロナが原因で私が黄色人種だから、

嫌がらせや怖い思いをしていたときに彼らは何も言わなかった、

メッセージもしてこなかったのに今回はこんなに言い寄ってきたこと。

私自身や黄色人種がターゲットにされたときは無視したくせに!と感じました。

私と黒人さんとでは何が違うの?

これこそ差別なんじゃない?

こんな悪循環をおしつけるあなたたちがいちばん差別と憎しみの元凶だ、

と気付いてしまったこと。

私と根は一緒、

でも普段はずっと離れているけど支えてくれる友人たち、

彼らは私の表現「どんな命も大事」という考えに賛同してくれています。

私が「胸糞悪い!」と感じていた時、

今、自分の中の感情がどうなっているのか、

あまりにもぐちゃぐちゃ過ぎて整理がつかず、

腑に落ちる表現や言葉で出てこなかったんです。

私の友人たちはフェイスブックの炎上を冷ややかに落ち着いて受け止め、

同調を押し付けてくる人たちに嫌悪感を覚えたそうです。

そして私を心配してすぐにメッセージを入れてくれました。

そして同調を強制してくる人たちのことを的確に分析していました。

「自分の意見を押し付けてくることが、そもそも分かり合う気がないってこと」

「自分の意見の押し付け行為は対立を生むと分かっていない」

「紛争と制圧でしか落ち着けないの?」

「単純に純粋に平等と命の大切さを訴えているのに、否定される理由がわからん」

「反対しているのではなく、むしろ公平平等を訴えているのにね」

「多数の流れに乗って正義を振りかざすことが美徳の人って悲しい」

そして極めつけは、

「この人たちって、変なもん売りつけてくるセールスマンに似てない?」

そう、これ!

彼らの文章を読んだときにしたあのざわざわ感、、、

急にすーっと私のパーソナルスペースに入り込んで来て、

やけに親しくしてきて、

私はあなたに親切してる感で言い寄ってくるあの感じ。。。

なんか、怖いっ!のあの感覚。

「これみんなもやってるよ」

「これ、ホントに良いから」

「みんな使ってるよ」

「使ってみないと損だよ」

「今だけでも良いから、一緒にやろうよ」

「一緒に買おうよ」

あー、あのシチュエーション、考えただけでぐったりだ(苦笑)

でも言われてみて、想像してみて、内容は違えどまったく同じ。。。

これでは当然ながら彼らと友人にはなれない。

境界線がはっきり見えた1日になりました。

私は人々の考えや生活を単純な枠にくくって押し付けるのは、

みんな違うんだから所詮そんなことは無理だと思っています。

多様性があり複雑な方法になってでも平和的に物事をすすめることは

それなりの価値があることなんです。

でもこれは多様で複雑になればなるほど、

大変で面倒くさくて労力のかかることが多いのは確かです。

だけどその努力をするかしないかは個人差、これだけの差です。

「私はこの努力をしようとする人たちだけとつながっていれば良い」

心底そんなふうに感じた本日金曜日でした。